テレビでは1994年10月24日NHK「歌謡チャリティーコンサート」(仙台市宮城県民会館で公開録画 11/23オンエアー)で歌っているが、これが日本での最後のテレビ出演。(Wikipedia などより)
会場になった宮城県民会館の楽屋は、共演される大月みやこさん、由紀さおりさんとご一緒でした。奥のほうが畳敷きになっていて、メイク用の大きな鏡が据えつけられています。
「テレサさん、リハまでまだ時間あるから、ここで横になっていたら」
テレサの体調が悪いと見てとったおふたりは、それぞれの荷物をおどけになり、わざわざテレサが横たわれるほどのスペースをつくってくださいました。そして、これ、使いなさいよ、とおっしゃって、敷いておられた座布団まで貸してくださったのです。
恐縮しながら私は座布団を並べると、その上にテレサを寝かせました。掛け布団がなかったので、テレサが羽織っていたミンクのコートが布団代わりです。
テレサは、立っているのもやっとの状態でした。
最初の、音あわせのリハーサルは何とかこなしましたが、歌ったことで体力を消耗したのか、本番前のカメラテストでは、テレサの衣裳を持ったスタッフが代役に立たなければなりませんでした。いつもの、ウォークマンを使った発声練習もなしです。
テレサは、朝食にオレンジジュースとサンドイッチを軽くつまんだだけで、楽屋で用意されたお弁当にも手をつけず、スタッフが買ってきた果物を口に入れていただけでした。
横になっているうちに、本番が近づいてきました。
ピンクのチャイナドレスに、やはりピンクのストールをまとったテレサは、かたちの崩れた三つ編みを編みなおしてステージに向かいました。曲は『夜来香』と『時の流れに身をまかせ』の二曲です。
テレサは、何とか歌いきったという感じでした。
ときおり顔をしかめ、瞑目(めいもく)するかのように目を閉じて歌ったのは、それだけ苦しかったからでしょう。天安門事件が起きたすぐあと、郷ひろみさんの番組で歌ったときよりも、テレサは苦しそうで、つらそうでした。
私は舞台の袖で、もう少しよ、あとちょっと、と拳を握りしめていました。
そういえば、あのとき―、天安門事件のときも、私は、お姉さん、頑張って、と祈るような気持ちで、ブラウン管に映るテレサを見守っていたのでした。いまにして思えば、お姉さん、頑張って、と心に念じたのは、このときが最後だったのです。
ステージを降りるなり、テレサは、倒れ込むように私の腕にもたれてきました。
「純情歌姫 テレサ・テン最後の八年間」(鈴木章代・著)
番組名
歌謡チャリティーコンサート にっぽんの秋を歌う
放送日時
1994年11月23日 チャンネル 総合テレビ
番組内容10月24日に行われた「心身障害児・心身障害者のために…やさしい心と愛の手を」と題したチャリティーコンサートの模様を仙台市の宮城県民会館大ホールからの中継録画で伝える。 今回は、「にっぽんの秋を歌う」をテーマに、名曲の数々と日本の秋祭りをイメージした歌などを送る。
主な出演者
山川静夫 | 十朱幸代 | 大月みやこ | 川中美幸 | しゅうさえこ | 水前寺清子 | 田川寿美 | テレサ・テン | 細川たかし | 美川憲一 | 都はるみ | 山本譲二 | 由紀さおり | 安田祥子 | 三原綱木とザ・ニューブリード | 東京放送管弦楽団 | 高橋正秋
翌年5月逝去。
鄧麗君の死
四十歳を過ぎるころから、鄧麗君の健康はじょじょにむしばまれていった。もとも と丈夫なたちではなかったうえに、少女時代におきたぜんそくが、ふたたび彼女を悩 ますようになる。
一九九四年十一月、NHKの『歌謡コンサート』に出演した鄧麗君は声にもはりが なく、あきらかに具合が悪そうだった。テレビの前の視聴者は、せっかくの 『夜来 香(イェライシャン)』もそっちのけで、はらはらしながら画面を観ていたのではないだろうか。歌いお わった彼女は、涙をこらえて「ごめんなさい」とでもいうように頭をさげ、舞台の下 手に消えていった。それでも、これが日本で最後のテレビ出演になろうとは、誰ひと り想像しなかったにちがいない。
十二月三十日、静養のためにチェンマイをおとずれていた鄧麗君は、ぜんそくの発 作をおこして、いきつけの病院に運びこまれて応急処置をうけた。
明けて一九九五年二月、台湾の家族のもとで旧正月をすごしたときも風邪が治らず、 体調はあいかわらず悪かった。このことは彼女の死後、台湾で出版された『影歌星遺…
『華人歌星伝説 テレサ・テンが見た夢』(平野久美子・著)
*「一九九四年十一月、NHKの『歌謡コンサート』に出演した」の部分は読み間違えやすいが、「一九九四年十一月(に放送された)、NHKの『歌謡コンサート』(十月収録)に出演した」の意味。
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