「最初にここ*で歌われたときに、びっくりしましたね。そのうまさというか。 月に2~3回、当時出たんですかね。あの当時のみなさんは色々うるさい人が多くて、受けのいいタレントさん、悪いタレントさんていうのが、従業員の中であったんですけど、テレサ・テンは要するにハートが良かったんですかね。 しゃべり方自体がすごく気を遣うというか、腰が低いって言うか。 当時、台湾ですか、すでに売れてたわけじゃないですか。そんなこと、後で知るわけですよ。そんなのおくびにも出さないっていうか。本当に好感、持てましたよね。」
(山崎イサオさん TBSテレビの番組中のインタビューで)
*注・ここ=インタビューを受けている、現在の銀座ケネディハウス(ライブハウス) 。当時の銀座メイツ。
生活のために歌う時期がようやく終わり、姚厚笙の指導のもとで、鄧麗君に歌手としての意識が生まれた。姚にとっても、鄧麗君ほど、いっしょにやって満足のいく仕事ができて、いまでも尊敬できる歌手はほかにはいなかったと懐しがる。
「彼女はスタッフに感謝し、彼らの気持ちをくんで仕事をしていました。コンサートでは多くの裏方が動きますが、リハーサルのとき、群舞のダンサーや照明のスタッフなどにも、かならずねぎらいの言葉をかけていましたね。大スターになってからも、それはまったく変わりませんでした。ですから、いつも和気あいあいと仕事ができたのです」
レコーディングやミーティングが終わると、スタッフ全員で彼女の自宅へ押しかけ、いっしょに母親手作りの餃子を食べた。モンゴル式焼き肉レストランで食べくらべをしたこともあった。
『華人歌星伝説 テレサ・テンが見た夢』(平野久美子)
文中の姚厚笙(ヤオ・ホウシェン)は、麗風(ライフ)レコード時代(1971~1975)にテレサ・テンと一緒に仕事をした音楽プロデューサー。
なお、テレサ・テンが「たくさん食べる」ことはいろいろな所で語られている。
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