1979年(昭和54年)2月19日 毎日新聞(朝刊)の報道
テレサ・テン不法入国
香港製の偽造旅券で
“台湾の美空ひばり”といわれ、かわいらしい丸顔で日本でも入気のある台湾籍の歌手、テレサ・テン(二四)=本名、鄧麗筠=が、偽造インドネシア旅券で不法入国していることがわかり、十七日、東京入管に収容された。テンは「台湾と国交のない国が多くなり、台湾の旅券では自由に海外渡航することがむずかしくなったため、香港で偽造旅券を二万香港㌦(約八十万円)で入手した」と供述している。同入管はテンを国外へ強制退去させる方針で、十八日本格的な取り調べに入った。
テン収容のきっかけは十五日、駐日インドネシア大使館から同入管への手配。内容は「偽造インドネシア旅券を使い、台湾入りしようとしたテング・エリーという女性が日本へ入国したらしい」というもの。同入管が調べたところ、テング・エリーは十四日、中華航空機で羽田空港に到着したテレサ・テンとわかった。
テンは、今年はじめシンガポール、香港で公演。十三日台湾、香港を経由して来日。今月末にはアメリカへ向かい、公演する予定だった。十三日台湾へ戻ったさい、偽造インドネシア旅券を提示したため、入国を拒否され、同時に駐台湾のインドネシア大使館は各国インドネシア大使館へ偽造旅券を使う「テング・エリー」を通報。
同入管の調べに対し、テンは「インドネシア旅券は今年初め香港のファンに作ってもらい二万香港㌦払った」と供述している。
同入管の話によると、台湾の交流協会の渡航証明があれば日本へ入国できるし、アメリカにも台湾旅券で渡航できる。また、本国に戻るさいインドネシア旅券を提示した理由も不明。同入管は不審な点が多いとして追及している。
テンは台湾・台北出身。十五歳でデビュー、四十九年はじめポリドールレコードと渡辺プロダクションの招きで来日、同年三月一日「今夜かしら明日かしら」でデビュー。レコード大賞新人賞に選ばれた。
(写真のキャプション)
テレサ・テン
1979年(昭和54年)2月19日 讀賣新聞(夕刊)の報道
テレサ・テンは偽造旅券で
香港で買い入国
「空港」「雪化粧」などのヒット曲で知られる台湾籍の人気歌手テレサ・テン(二四)=本名・鄧麗筠(写真)=が、新曲レコーディングのため来日したさる十四日、香港で買ったインドネシアの偽造旅券を使って入国していたことがわかり、法務省東京入国管理事務所は、テレサを東京都港区の同事務所内収容所に収容し、十八日から本格的な取り調べを始めた。
同事務所の調べによると、テレサがさる十四日、香港発の中華航空16便で羽田空港に着いた際に持っていた旅券が、インドネシア政府発行の観光ビザだった。名前もインドネシア人のものだったが、入管係官がその女性をテレサ・テンとは知らず、旅券が偽造であることも見破れなかったため、入国させた。
ところが、十五日になって、在京インドネシア大使館から「テレサの使った旅券は偽造である」との通告が同管理事務所に入り、テレサが偽造旅券使用を認めたため収容した。調べに対しテレサは「台湾政府発行の旅券は持っているが、ほかに必要な渡航証明書が手に入らなかったので日本に入国できなかった。香港で二万香港㌦(約八十万円)でインドネシア政府発行の旅券をヤミルートで買い、入国したと不正入国を認めた。
同事務所では、台湾で渡航証明書を入手できなかったテレサが、日本入国を急ぐ余り、香港で偽造パスポートを買ったとみているが、香港に日本入国を望む台湾人相手の大がかりなパスポート偽造団がいるとみて、さらに入手経路などを追及している。
テレサは、四十九年、日本ポリドールと契約、「今夜かしら明日かしら」でデビュー。その後、「空港」「雪化粧」がヒット、“台湾の美空ひばり”といわれ、四十九年度の日本レコード大賞では新人賞をとっている。
今回の来日は十八日に新曲をレコーディングするためだった。
1979年(昭和54年)2月19日 朝日新聞(夕刊)の報道
テレサ・テン 偽造旅券で入国
台湾籍の歌手で、日本でも人気 のあるテレサ・テン(ニ四)=本名、鄧麗筠=が、香港で買ったインドネシアの偽造旅券を使って入国し ていたことがわかり、法務省東京入国管理事務所は、東京都港区の 同事務所内施設に収容、十九日か ら本格的取り調べを始めた。
同事務所の調べによると、テレ サ収容のきっかけは、十五日、在 日インドネシア大使館から同入管への手配。この十四日、新曲レコーディングのため香港発の中華航空で羽田に着いたが、このとき使 用した旅券が偽造とわかり、テレサも「台湾政府発行の旅券のほか に必要な渡航証明が手に入らなかったため、香港で、二万香港㌦ (約八十万円)払ってインドネシアの旅券を買い入国した」と認めた。同入管事務所は、香港にパス ポート偽造団がいるとみて、入手経路などを、さらに追及すること にしている。
テレサは、台北出身。四十九 年、ポリドールレコードと渡辺プロダクションの招きで来日、「今 夜かしら明日かしら」でデビュー。同年レコード大賞新人賞に 選ばれ、その後「空港」「雪化粧」などがヒットし、テレビにもたびたび登場。かわいらしい丸顔 とたどたどしい日本語で若ものの人気を集め、“台湾の美空ひばり”ともいわれている。
(写真のキャプション)
不法入国のテレサ・テン
実は、これらよりも1日早く報道をしていた新聞があった。
1979年(昭和54年)2月18日 日本経済新聞の報道
テレサ・テン不法入国
ニセ旅券発覚、国外退去へ
(写真)
台湾人歌手の
テレサ・テン
台湾生まれの人気歌手でポリドール専属のテレサ・テン(24)=本籍台湾、本名・鄧麗筠=が偽造旅券で入国したことがわかり 東京入国管理事務所は十七日、テレサ・テンを不法入国(偽造旅券)の疑いで同事務所に収容し、背後関係など本格的な追及を始めた。
調べでは、テレサは十四日に羽田空港着の中華航空機で香港から入国した。その際、台湾人のテレサが、インドネシア国籍の旅券を所持していたことに同事務所職員が不審を抱き内偵、在日インドネシア大使館に照会したところ、ニセ旅券であることがわかった。このため十七日、テレサを任意で調べ、あっさり自供したため不法入国で同事務所に収容した。
調べに対し、テレサは「香港で二万㌦で偽造旅券を買った」と自供している。同事務所は調べが終わり次第、テレサを国外退去処分にする。
テレサは台北(台湾)出身で主に香港で活躍しているが、香港から東南アジアにかけて幅広い人気がある。日本では四十九年三月「今夜かしら明日かしら」でポリドールからデビュー。「空港」「ふるさとはどこですか」「雪化粧」などポップス演歌のヒットを飛ばしている。四十九年には、レコード大賞の新人賞に選ばれた。
ふたつのパスポート
一九七九年二月十九日の夕刊各紙に、こんな見出しがいっせいに掲載された。
「テレサ・テン偽造旅券で入国」(朝日新聞)
「テレサ・テン不法入国 香港製の偽造旅券で」(毎日新聞)
「テレサ・テンは偽造旅券を香港で買い入国」(読売新聞)
「テレサ・テン、偽造旅券で入国 収容し背後関係追及」 (サンケイ新聞)
当時の日本の新聞各紙には「偽造」と「不法」の二語がまがまがしくとびかい、テレサ・テンと旅券偽造団との関係がもっともらしくささやかれた。
新聞報道によると、事件の顛末は以下のようになる。
一九七九年一月から二月にかけて、シンガポール、香港で公演したのち、二月十三日、台北にもどった鄧麗君(デン・リーチュン)は、インドネシア旅券を入国管理官にみとがめられ入国を拒否された。国中に顔を知られたスーパースターが、インドネシア籍の「テン・エリー」(鄧古蒂麗)という別人物になりすませるとでも思ったのだろうか。台北で母親と落ち合い、レコーディングのため日本へやってくる予定だった彼女は、やむなく中華航空機に乗りついで香港へ行き、翌日の十四日に羽田へ到着した。ここでも彼女はインドネシア旅券を入国審査官に提示したのだが、羽田の審査官はそれに気づかず「テン・エリー」のまま入国することができた。
事件が発覚したのは翌十五日のことだった。インドネシア大使館から知らせをうけた東京入国管理局の係官が、滞在先のヒルトン東急ホテルに出むいてテン・エリーと名のる中国系女性を収容した。テレサ・テンは港区港南にある東京入国管理局に収容されて一週間の取り調べを受けた後、国外退去処分となった。取調べに際して、彼女は国交のない日本との往来の便宜をはかるためにインドネシア籍を利用した、問題の旅券は香港のファンから二万香港ドル(当時のレートで約八十万円)でゆずりうけたものだ、と供述した。
私は彼女の不法行為を弁護するつもりなど毛頭ない。しかし、日本のジャーナリズムは、「なぜ彼女はふたつのパスポートを持とうと思ったのだろう」という疑問を、もう少し深く考えてもよかったのではないか、とは思う。一九五〇年代から六〇年代初頭にかけて、中華民国は東西冷戦の下での東アジアにおける反共の砦として、…
『華人歌星伝説 テレサ・テンが見た夢』(平野久美子)
5年後、1984年(昭和59年)2月28日 赤坂ニューオータニ・クリスタルルームで活動再開を表明する記者会見兼ミニライブ。
そこで何とか、再デビューしたテレサをマスコミにアピールしようと考えたのが、「ホテルニューオータニ」 のクリスタルルームで行うミニステージだった。
マスコミや音楽評論家に声をかけて集まってもらい、そこでテレサが最初に数曲歌い、そのあとで記者会見を開くという作戦をたてたのである。結局は、これがテレサが再デビューを果たしてからの初めての本格的な活動になったのである。
(中略)
きっかけをつかんだリポーターたちは、次から次へと質問を投げかけた。それからは偽造パスポートの質問一色になった。
テレサは戸惑い、言葉がうまく出てこない。そして困惑した顔を僕に向けた。僕は頭のなかが真っ白になった。こんなはずじゃない、こんなはずじゃなかったよな、という言葉がめぐるだけだった。
だが、しばらくの沈黙のあとテレサは静かに答えたのだ。
「あのときは私が子どもでした。未熟でした。いま考えれば私の至らないところがありました。反省しています。大人として勉強して、みなさんに迷惑をかけないような、いい歌手になりたいと思います。よろしくお願いします」
彼女のけなげさはこういうところにある。テレサは、台湾にはそういう事情があるんだ、 とは決していわなかった。自分がいけなかったのだと、素直に謝るだけだった。
『追憶のテレサ・テン』(西田祐司・著)
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