新宿ルイード(1976年~)


1976年7月10日 東京都新宿ルイード(収容人数は250名~300名)


 後にCD化された「at ルイード」の録音(テープ)はテレサ・テンの死後3年経って、彼女の部屋の遺品の中から発見されたもの・・・と聞く。(ただ、CDのリリースは1997/4/9のはずなので、2年後ということになる。)

 「ファーストコンサート」と言われている1977年4月22日のヤクルトホールのコンサートよりも前に行われている。

―曲目―

0:36 1. 雪化粧 

4:11 2. シクラメンのかほり 

5:44 3. 心もよう

9:11 4. 阿里山的姑娘/高山青 

12:44 5. 再見, 我的愛人 Goodbye, My Love グッド・バイ・マイ・ラブ 

16:02 6. 空港 

18:59 7. BRIDGE OVER TROUBLED WATER 

26:51 8. JAMBALAYA 

32:02 9. 夕焼け小焼け 

33:05 10. 淚的小雨 "Tears Of Rain Drops"-長崎は今日も雨だった 

35:31 11. 襟裳岬 

39:05 12. 女ひとり 

41:53 13. 夜のフェリーボート 

44:58 14. MY WAY

演奏:豊岡 豊とスウィング・フェイス

編曲:岡本和雄


https://www.facebook.com/T.T.Labo/posts/762634303800012 より


 当日の様子や客数は、 テレサ・テン 1976年では

ちょうど、30年前の事ですが、今でも鮮明に覚えています。生憎の雨で蒸し暑い日でした。会場は満員の客で、私の席はステージに向かって右側の最前列のテーブルでした。同席された方は勿論、相当なディープな面々で、埼玉から来たセールスマンと戦前中国に行っていた自衛隊関係のお偉いさんなどを今でも思い出します。東京では初めてのライブで、全国から集まっていました。台湾や香港の方々も応援に駆けつけていたようです。

と述べられている。



一方で、鄧麗君④(1977年3月19日  新宿 RUIDO)では、数回同会場でのミニ・コンサートに通ったという筆者が、直接1976年7月10日の状況については記述していないものの

ここ、RUIDOで行なわれる彼女の実況ライブは、回を重ねるごと 観客が、多くなっていったように思います。

と書いている。7月10日の初回は満員だったが、その後、客数は減り、再び客数が増えたということでしょうか。

 なお、1976年7月10日の他にも、同じ会場(ライブハウス)で少なくとも3回(あるいは5~6回以上)、

1976年10月30日

1977年2月22日

1977年3月19日

にミニ・コンサートを行っていたと記述しており、1977年3月19日についてはその内容を文字化している。(鄧麗君④(1977年3月19日  新宿 RUIDO)

 また、冒頭の曲「雪化粧」を歌ったあと、「この素晴らしいの、ルイードは初めてですけど」とテレサ・テン本人が言っており、ルイードでのミニライブは、1976年7月10日から始まったということになる。


早速の追記(2018/02/16):

 at ルイードに次のような記載がある。

テレサ・テン 1997.4.9
  ライナーノート、トーラスレコード制作担当、鈴木章代の文章からメモ。1976年7月、新宿ルイードでのライヴ。初のワンマンショーはヤクルトホールで1年以上後のこと。テレサ・レンが大切に所有していたテープ。豊岡豊。ギタリスト兼編曲家 岡本和雄。テレサはギターとフルートを持参。夕方近く開演、小雨。デビューから2年のテレサの日本語はノートを持ち歩く努力でかなり上達。ジョークも。まばらな客席、台湾からの応援団も。テレサは黒いチャイナドレス。豊岡氏が率いるスゥイング・フェイスは4トランペット、4トロンボーン、5サックス、ピアノ、ドラムズ、ベース、ギター。このライヴと同時進行で3000人収容のリー・シアター(香港)での3日間のワンマンショーの話も。 
・1976.3香港リーシアターでのソロコンサートDVD→ 
・1978年香港コンサートDVD→    
 23歳のテレサ・テンのMC入りまくりのファンには宝物のようなアルバムだ。ここには「1975年 4月22日ヤクルトホールにて日本初ライブ」とある。ユニバーサルのほうが間違いであると思われ。(後略)

 鈴木章代氏は、テレサ・テンの最後のテレビ出演となった1994年10月24日NHK「歌謡チャリティーコンサート」集録でも帯同していた。それだけに信頼できる人であり、豊岡豊氏・岡本和雄氏からの伝聞とは言え、ここに書かれたことは信頼できる情報と思われる。


追記

 CD「at ルイード」を入手し、ライナーノート冒頭の全文が分かった。


テレサ・テン3回忌メモリアル"秘蔵Live"  

 これは、テレサ・テンが大切に所有していた テープだ。再生してみると1976年7月の新宿ル イードでのLIVEが収録されていた。ヤクルトホ ―ル(初めてのワンマンショー)より1年以上前にあたる。 
 私は、当時ステージに上がった豊岡 豊氏とギタリスト兼編曲家の岡本和雄氏に会って話を聞くことが出来た。 
 「おはようございます」ジージャンにジーパン、 洗いっぱなしの髪、素顔のままのテレサ・テン は衣装、化粧品等の他に、ギターとフルートの ケースを持って付き人とともにやって来た。 
 音合わせが始まりやがて、ジャンパラーヤが始まった。テレサがフルートを吹き始めると一同 びっくりした。プゥーピープゥーピー、ピューなの である。 
 が、豊岡 豊氏始めメンバーはやさしく見守 っていた。テレサの冒険は歓迎されたようだ。  夕方近くの開演。小雨のせいか、客足が遅い。ステージの上には豊岡 豊とスウィングフ ェイス(Drums, Bass, Guitar, Piano, 4トランペ ット, 4トロンボーン, 5サックス, Guitar岡本氏) 既にぎゅうぎゅう詰め。 
 テレサ・テンが登場へ黒いチャイナ・ドレスの深いスリットからのぞく綺麗な脚、少しだけウェーヴのかかったセミ・ロングの髪、彼女は輝いていた。
 「後ろから見ていてもグッとしたね」豊岡豊 氏は当時を思い出しながら笑った。 
 まばらな客席には母国からの応援団の姿も見える。心強い。この日の為にテレサは『五木 の子守唄』『夕焼け小焼け』『My Way』『明日 に架ける橋』を新しく選曲していた。
 1973年来日時には―言も喋れなかった日本語もデビューから2年で、かなり上達していた。 勿論軽妙なジョークのかげには、いつもノートとペンを持ち歩き、日本語を勉強していた彼女の努力があった。 

  ルイードの話と同時に香港のリー・シアター (3000人収容のホールで3日間のステージ)で のワンマンショーの話が進行していた。 
 台湾をはじめ、アジアのあちこちで、大スターだった彼女、だが日本では第一歩から始まる 新人歌手。心のどこかにいつでも、そのギャップに対するジレンマがあった。 
 『グットバイ・マイ・ラブ』はそのコンサート用の譜面だった。テレサが、歌のタイミングを間違えているのははやる気持ちからか、ご愛嬌。 
 若き日の歌姫は、負けず嫌いでキュートな天才と呼べよう。   
                        トーラスレコード制作担当:鈴木章代 

*注:太字はサイト管理者。


 日本国内での、コンサート(ライブ)はこのルイードでのライブを最初とする記述を見かけることが多いが、さらにそれ以前、ライブハウス「銀座メイツ」(現在「ケネディ」)で行っていたらしい。


篠木雅博は次のように述べている。

 僕は業界に入りたての頃で、洗足池の近くにあった作曲家、猪俣公章さんの自宅で、晩ご飯をごちそうになりながら曲作りの雑談をさせてもらっていた。 
 ある日、できたばかりの曲を聞かせてもらったのが三連のリズムの「空港」だった。感想を求められたので「深夜の飛行機の離陸が目に浮かぶようだ」と答えた。歌うのは香港で有名なテレサ・テンだと言われた。 
 数日後、銀座のライブハウスに彼女が立った後、銀座のすし屋で紹介された。彼女は20歳。初々しくえくぼが愛らしく礼儀正しい。スラっとした容姿で、チャイナ服のスリットからのぞく足がきれいなものだから、恥ずかしながら新米の自分は緊張した。

篠木雅博 歌い継ぐ昭和 流行り歌 万華鏡~ZAKZAK by 夕刊フジ

 「空港」の発表1974年7月1日以前のことということになり、1976年7月10日以降の新宿ルイード以前に銀座メイツで歌っていたという裏付けになる。



On Teresa Teng

2018年。今頃になって、突然テレサ・テンのファンになりました。 テレサ・テンの人となりや、そしてもちろん歌も知りたいと思い、分かったことについて、自分のためにまとめていきます。

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